NPO法人 日本歯科放射線学会

第58回学術大会・第14回定例総会

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- 鹿児島について -

皆様、NPO法人日本歯科放射線学会第58回学術大会、第14回定例総会大会長の鹿児島大学馬嶋 秀行です。ようこそ鹿児島へ、歓迎いたします。

2010年に、この鹿児島の地で第15回画像臨床大会を開催させていただき、はや8年が経とうとしております。一昨年の2015年に鹿児島の仙巌園、尚古集成館、旧鹿児島紡績所技師館(異人館)などを含む鹿児島の地域がユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されました。また来年、鹿児島は明治維新150年の年になります。

ユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼・造船・石炭産業」(https://www.city.kagoshima.lg.jp/kanko/sekaiisan/top/index.html)は、日本が西洋以外で初めて近代化・工業化に成功したことに由来します。

そこで、幕末から明治維新にかけて、少し歴史を紐解きながら、鹿児島の紹介をさせていただきたいと思います。

1853(嘉永6年)諸外国の往来を禁じる鎖国政策を敷いていた徳川幕府に対し、ペリー提督率いる黒船艦隊が浦賀(現在の神奈川県横須賀市)沖に現れ、開国を求めました。翌年1854(嘉永7年)年、ペリーは再び来航し、1ヶ月半の末、全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印しました。この頃から明治維新までを幕末と呼んでいます。

ちょうどその頃、鹿児島では、薩摩藩主島津斉彬が日本を強く豊かな国に生まれ代わらせようと、「集成館事業」という近代化事業に取り組んでいました。事業の中核となったのが鹿児島城下郊外の磯(仙巌園)に築かれた洋式工場群「集成館」でした。ここには鉄製の大砲を鋳造するための反射炉や熔鉱炉、ガラス工場、蒸気機関の研究所などがありました。仙巌園までの水路設置は18世紀初頭。それを1852年、途中から新たな水路を築き集成館に水を引き、水を動力に用いました。そして1857年には反射炉も完成し、鉄製砲製造に成功しました。

その後、1862年に生麦事件が起き、翌年の1863年には、薩英戦争が勃発しました。薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、死傷者63人だったそうです。その詳細は、旗艦ユーライアラスの艦長や次官の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡したとの記録が残されています。

一方、薩摩側の物的損害は台場の大砲、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になったそうです。このように物的損害は大きかったのですが、死傷者は、祇園之洲砲台で税所清太郎(篤風)のみが戦死し、市街地では流れ弾に当たった守衛兵が4人死亡、負傷者は13人だったそうです。

薩英戦争で焼失した集成館は、1865年に機械工場が完成。以後、次々と工場が建てられ蘇りました。この機械工場が現存しています。日本にある最も古い洋風工場建築物で、重要文化財、そして世界遺産の構成資産と成っています。また同年(1965年)、薩摩は15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣しています。薩摩は琉球王国まで支配していたため、琉球を通じて中国との貿易を行い、世界の情勢をよく把握していました。薩摩が行ってきた「抜け荷」、近代化事業は、また、日本を植民地化から防ぎ、日本を独立した国家として認めさせ、近代化を推進したことになります。これが明治維新に繋がりました。

ユネスコ世界文化遺産の登録には、島津家第33代であり、島津興業社長島津忠裕氏がご尽力されました。本大会では特別講演として、島津忠裕氏をお招きしております。貴重なお話を拝聴できるものと思いますので、皆様の多数のご参加を心よりお待ちしております。

鹿児島大学大学院医歯学総合研究科
腫瘍学講座学顔面放射線学分野

教授 馬嶋秀行

「鹿児島維新 年表」

1609年慶長14年
幕府のお墨付きをえた薩摩藩は、1609年に琉球を軍事的に制圧した。
1773年安永2年
第25代当主 島津重豪 明時館(天文館)設立。
1851年嘉永4年
島津斉彬が島津家第28代当主となる。日本の最南端にある薩摩藩は、ペリーが黒船で浦賀に来航するずっと前から、諸外国の脅威に真っ先に遭遇するところだった。そこで1840年代、通商を求める欧米列強の外圧にさらされ、近代化に着手する。そして、1851年に藩主となった島津斉彬による「集成館事業」により、反射炉建設や紡績など、後の日本の急速な産業の近代化の礎となる日本の産業革命を成し遂げた。日本の近代化は、鹿児島の地で始まった。
1852年嘉永5年
江戸中期に竣工された関吉疎水から伸びた吉野疎水が薩摩藩第28代当主島津斉彬によって行われた集成館事業の動力源として利用された。
1853年嘉永6年
代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した。
1854年嘉永7年
ペリー再び来航、日米和親条約を締結、調印。
1857年安政4年
旧集成館 反射炉設立。
1858年安政5年
寺山炭窯竣工。集成館事業で用いられる木炭を製造した石積み窯。
1858年安政5年8月24日
第28代当主 島津斉彬 死去。
1862年文久2年9月14日
生麦事件 横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)
1863年文久3年8月15日–17日
薩英戦争。薩摩島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。
1865年慶応元年 4月17日
15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣。串木野市羽島浦から英国貿易商グラバーが用意した蒸気船オースタライエン号で、密かに英国に旅立った。
1865年
薩英戦争で焼失した集成館を再竣工。また次々に工場が再竣工された。
1868年
明治元年
2010年
日本歯科放射線学会 第15回臨床画像大会
2015年
第33代 島津忠裕氏 島津興業社長就任
2015年
明治日本産業革命遺産として、ユネスコ世界文化遺産に登録。
2017年
日本歯科放射線学会第58回学術大会開催。第33代島津忠裕氏 島津興業社特別講演。
2018年
明治誕生150年

開催会場

主管

鹿児島大学大学院医歯学総合研究科腫瘍学講座顎顔面放射線学分野内

〒890-8544
鹿児島市桜ヶ丘8-35-1
TEL:099-275-6272
FAX:099-275-6278

大 会 長:馬嶋 秀行
準備委員長:末永 重明

E-mail:
jsomr-58@d1.dent.kagoshima-u.ac.jp

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